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「山陰地方の絣裂れを蒐めて」 村穂 久美雄

昭和43年、駒場の日本民芸館で、秋の特別陳列として、山陰の『絣展』が開催されました。
これは、鳥取県の小学校教諭 村穂久美雄氏の蒐集品によるものだったのですが、当時、個人の蒐集品だけで特別展を開くのは異例のことで、それほどに村穂氏の蒐集は量質ともに素晴らしかったといえます。
 ここで紹介します文章は、その特別展で催された村穂氏の講演の速記で同年10月号に掲載されたものです。
 柳宗悦(やなぎ むねよし)氏の言葉が当時の若者達にいかに影響を及ぼし、そして民藝運動がいかにしてなされたかがうかがえます。
 純朴な田舎の青年の情熱が感じられる講演です。コレクター(蒐集家)とは、こういった役割も担うのだ。。と心打たれます。コツコツと集めた蒐集品が日の目を見る瞬間の喜びが伝わってきます。
 そして、民芸や伝統工芸の今後についても、あらためて考えさせられる講演です。
 後半は、絣の作られた過程についても分かりやすく語られています。

                  *        *      *

 「私は山陰育ちで関西からこちらのほうへ参りましたのは生れて初めてです。そしてネーム入りの背広を着たのも生まれて初めてというわけで、それで出がけに家内から東京に行ったらお行儀をよくしてくださいよと、こんこんといわれて出てまいったわけであります。(笑い)
  
 柳宗悦先生のことになりますが、私が二十才そこそこ、終戦のころにであります。米子の付近の大篠津に、いま倉敷の民芸館に勤める鈴木尚夫君という立派な若者が、その頃台湾から引き揚げてまいりました。近所の若者はこの鈴木君を慕ってよく集まり、民芸の美しさというものを教えられ、折にふれて出てくる柳先生を語る強い言葉に、最初はよくわかりませんでしたが、段々と魅せられるものがあったのです。そして耳を傾けていくうちに、柳先生の著書「真と美」を読んで、非常に心打たれて、未公認ですが弓浜民芸協会というものを作りました。今でも覚えておりますが柳先生の選集が出されたころ、これを一括購入した者には、先生の署名入りの本がいただけるというので、これを私は本棚に列べてそのムードを楽しんでおったわけでありました。
  
 それから暮らしのために、皆はちりぢりに分かれましたが、先生のおっしゃることを、私は私なりに生かす方法はないものかと考えましたときに、頭に浮かびましたのが織物、とくに絣裂であります。よし、ぼくはこれを蒐めてやろうという決心をし、そのためにはどういう職業を選んだらばよいのか、いろいろ考えあぐねた末、小学校の教師を選びました。小学校の教師といっても、当時はなかなか志願者が多く、どんなところへでも参りますからといって、赴任したところが現在の庄内小学校であります。実は浜の学校をねらっていたので一時は落胆したわけです。ところが、掃除当番の子供が持ってくる雑巾を見て驚いた。縞あり、絵あり、それもちゃんとした絣の裂れです。私には願ってもないことで、さてそれでは本性を現わして、腰をすえて蒐めようと、そして今日まで二十年間一生懸命集めてまいったわけであります。

 私は東京も初めてですから、民芸館も初めてです。いつの日か、宗悦先生にお会いしたら、私はこんなことをやってみましたといえる機会もあろうかと、それが心の支えというか、望みでもあったのですが、当時の私には先生はやはりあまりにも偉く、そして遠くの存在でありました。ついにご生前お目にかかる機もなく、これが私として一生の心残りであります。

 たまたま昨年の冬、柳悦孝先生 (*)が絣の調査で山陰に来られた記事を新聞で知り、意を決して学校から電話をかけましたところ、今晩にもぜひ会いたいから、米子の旅館まで来てくれ、というお返事。私はその日の授業はうわの空、動物園のおりの中の熊のようにうろうろして、デートどころのさわぎじゃありませんでした。さて、何をお見せしたものか、絵絣はこれまで珍重されて、なるほど絵絣には立派なものもあり、心打たれるものもありますが、併し途中にもその道の専門家のところにも廻られてきたとあっては、とてもこういうものでは合格しないだろう。そして、織物については大先生である、よし一つ試してやろうという、大それた気持になって持っていったのが幾何学文様の小裂れであります。
 柳先生はそれを見るなりウーンとうなられまして、「やはりある」やはりどこかにあると思っていたが、あったなと、私はその言葉を聞いたときに兜をぬぐ思いでした。明日お帰りだというご予定を、ぜひ一度拙宅においでいただきたいと、私は昼間は学校がありますので、夜の約束をして第一日目は引き揚げました。

 次の日は雪でした、先生果たして来てくれるだろうか、心配で心配で---その日は学校の生徒たちは山登りでしたが、普段は登れ登れというほうなのに、雪が積もって帰れなくなったら大変だと思い、帰ろうよ帰ろうよと言い張るので同僚は、きょうはいつもの君とは違うが、何かあったのかと不審がられました。私はただ先生にお会いしたい一心で帰ろうの連発、解散してからは夢中でわが家をめざし途中あわてて溝へ落ちたりしながら急いで帰宅いたしました。

 既に来宅の先生は、ずだ袋のようなズボンをおはきになって、壊れていたぼくの機の上に乗っかり、一生懸命に修理していられるところでした。それを見てびっくりして了いました。織物にはずいぶん関心の強いお方もあるが、こういう先生は初めてです。家内を呼んで、こんな偉い先生をお迎えしてどうしたものだろうと----。家内は少しふてぶてしいところがありまして、あんたは柳という字がついていたら、なんでもいいんでしょう(笑い)家内も尊敬はしているんですけれども、尊敬の度合いがぼくのほうが強いわけなんです。そうしたらこんどは運悪く停電です。
 その晩にかぎって停電とは全く恐縮していると、先生いわく、「村穂君、こんな絣は、明るい電灯の下で見るよりも、こういうローソクの明かりで見るほうがすばらしいんだ」
 私は慰めの言葉かと思ったのですが、なるほどその通りです。その晩は、いいな、いいなの連発で夜が更けるまで、私としては感激の一夜でしたが、あとで聞くところによれば、先生は非常に細かいお仕事をされているために目がお弱いとか、そして寒さにもお弱い方だとか、そういうことも知りませんで、石油ストーブ一つあるだけの、カーテンすらないところで、相すまぬことをしたとたいへん申しわけなく思ったのです。

 こういう出会いがありまして、柳先生はこれをぼく一人で見るのはもったいない、ぜひ東京の仲間にも見せたいといわれ、再度お越しいただいたのが今年の夏のさなか、蝿の多い衛生管理の届かないところで、またもや感きわまったお声を出されて、一生懸命ご覧になられ、先生はじめこんどは同行された鈴木繁男さんその他、皆さま方のお力添えで、現在こういう立派な民芸館に私の蒐集が陳列される運びになったわけであります。

 有頂天の私に家内が申しますには、あなたが作ったものなら列べて自慢してもいいでしょうが、人のこしらえたものを列べるだけじゃ弱いですね。それには違いありませんけれども、しっかりと物さえ見て頂けたらば幸いだと思います。

 これだけのものが集まりましたのは、所詮私ひとりの力ではありません、私をささえてくれた友人、私の教えた子供たち、もっと奥には古い民芸の先輩の方々が、物はどうあるべきか、どういうものが本当に美しくて、どういうわれわれは暮らし方をしなければならないか、そういう、きちんとした物の考え方を私たちに教えてくださった、そういう人たちがあればこそ、現在こういうものを、皆さんの前にお目にかけることができたと思いまして、私は非常に感謝している次第でございます。」
                            
*柳悦孝(やなぎよしたか)・・・・・染色工芸家。女子美大学長を務めた。沖縄の伝統工芸の調査でも知られる。民芸運動の創始者である柳宗悦氏の甥にあたる。
      そこでここに陳列された、絣裂れは、極く僅かな点数を除いて、大抵は鳥取県の米子を中心とした地方の絣裂れであります。---- 中略 ---- 江戸時代にこの辺りは各農家で綿作りを専業にしておったようであります。

 当時は自給自足の生活ですから、各家々の人が自分の家に機を持って、自分の着る物を作る生活をしていた。縞物や無地物を作っているところに、絣の技法というものが入ってきた。そうなると材料がある、技法があり、用途がある、こうしてこの地方に絣というものが栄えたものだろうと思います。

 綿について土地の者に聞いた話では、綿には砂地の土地が適している。砂丘地帯ですから、夏の直射に当りますと非常な高温となると、同時に夏は東風が吹く、これが綿の開花時、実を結ぶ時期によい影響を与え、そのために、綿の栽培が非常に盛んになったのだということです。米子の図書館にある本を見ますと、この辺りは全国でも有数な、三河に次ぐ綿の産地として、鳥取藩の産業の一つとなっております。そしてとくに、弓ヶ浜は外浜と内浜の2つに分かれますが、米子 ---- 境を中心として、外浜のほうが風の具合でよく出来ておったということであります。

 綿は春の彼岸の前後に種をとりだして、お湯と灰をまぜ、その中でもみ、二・三時間陽なたに干して、直か播きにするそうです。麦と麦との間に畝を作って直か播きにして、麦を刈りとる頃、十センチくらいに伸びたところを間引きする、その後もう一回、本間引きをやって、芯をとると枝が出て広がるためです。大体八月ごろ黄色なかわいい花が咲きますが、九月末か十月ころ実を結びまして、この実からパッと白い綿が吹き出るわけです。これを綿が吹くといっております。

 綿をとって二・三日陽なたで乾燥させますと、こんどは綿打ちにかかります。このへんの順序は皆さま方、よくご存じの方が多いようですから、間違ったことをいって笑われないように省略するといたしますが、最初は綿打屋というものがあって、そこへ持っていって綿を打ち、それから糸繰りにかけ、糸ワクにとって、いよいよ自分の好きな絣に織ろうという算段をするわけです。浜の綿がなぜ珍重されたかというと、繊維が短かくて弾力性に富み、何回打ち直してもぺしゃんとはならない、また陽に干すと元通りにふくらむということだそうです。
 
さて愈々絣を織るわけですが、ここに持参しましたのは鶴亀文の絵絣ですが、娘が嫁に行くとかいうときに、目出度いものとして織ったものでしょう。模様をきめるのは、種糸屋という職業がありまして、これが専門の絵描きに描かせたものを、種絵として売って歩き、それを各家々で買っていたようです。図柄がきまりますと、糸を紺屋に持っていき染めてもらうのですが、この紺屋の数が米子から浜まで十一ヶ所、各所に必ず一軒、多いところは三軒くらいありました。こうして染めた糸が機にかけられて織り上るわけです。

 絣というのは ----- 大体ここに展示されたものは幾何文ですが、見やすいのは見やすいように、むずかしいのはむずかしいなりに、ちゃんと救いの道のある織物なのです。こういう程度のものですと、大体二・三日で一反は織れるでのではないでしょうか。こちらの柄ゆきのように手のこんだものになりますと、糸を合わせるのにだいぶ苦労するそうですが。 ----- 物によって、これは夜具に、あるいは丹前。こちらが着物地、ねんねこ、経絣、と向き向きがはっきりとしております。一冨士、二鷹、三ナスビとこれは目出度いものに使われたということが一目でわかります。面白いのは松と鶴の絵絣、鶴はちゃんとこちらを向いておりますが、松が反対に生えている、これは種紙を間違えたものでしょう。(笑い)こちらが縞、浜に茶絣という綿がありまして主に縞に使ったようです。

 こういう具合に絣の模様をあげますと、一体どのくらいな種類の模様があるかと思いますでしょうけれども、絵模様だけでも数えきれないくらい、一口でいえますことは不吉というか、凶につながるようなもの以外は、ほとんど模様化しているといって過言ではないと思います。幾何文模様になりますとこれは自由自在、とてつもなくあります。こういう模様は弓ヶ浜だけかというと、そうでもありません。絣を織られたところには必ず、多かれ少なかれ似たような模様がありとくに山陰地方には広瀬とか倉吉とか出雲地方に似たような模様があります。

 ここで私が感心いたしますのは、一体小学三年か四年しか出ていない、農家の主婦達の手で、織られたものであるということです。もうすでにおばあさんになっているその人たちの話では、夜なべにやったということですが、忙しい農作業をやりながらの、本当に毎日が苦労の連続のような時代、「荷車の歌」というのがありますが、そういう労働をやりながらでも、なおかつこういう織物ができたということです。いまは農作業も近代化し電気洗濯機もあり、時間の余裕のある時代ですけれども、今の女性に、これができないということが残念でなりません。こういう点で私たちは日常生活の心構えを、年寄りから非常に教えられた思いがいたします。

 さて、現況ですけれども、現在浜には紺屋は一軒もありません。一軒ありますのは紺屋ではなく、染物屋です。昔の、格をもった、きちんとした仕事場のあとは物置場になり、藍ガメはひっくり返され、見るも無惨な姿をさらしております。種糸屋さんはもちろんそういう次第ですからありません。技術を持っておられる方はいると思いますが、何分にも年寄りですし、若い者の時代になると、ばあさんそんなことせんでも子守りでもしてくれ嫁が働きに出たほうが、なんぼ暮らしがらくかわからんといって、私らがたきつけても言うことを聞いてくれません。ただ現在境港に稲岡さんという立派な方が、その下におられる何人かのグループの人と一緒に、昔からの伝統を守って、きちっとした絣の仕事をやっておられます。またもう一軒カワタという紺屋さんが。「とみまち」というところでやっております。しかし糸を引く人たちはだんだんと年をとられ、この間聞いたところでは、浜のほうの人はお年で、撚りがかからんようになっということなので、もう絶えてしまうのではないかと思います。
 
 こうなりますと、いくら私が気狂いのようになっていってみても、しょせんは一介の学校のすかんぴんの教師、どうしょうもないことであります。何らかの形でそういうものをきちんと残しておくためには、民芸ばかりじゃなく、伝統工芸をやるところはいずくも同じような問題をかかえていると思います。強い力のご指導なり、テコ入れが必要になってまいります。人に仕事をさせる以上、十分な保障と将来の見通しがなければ、軽々と口にできるものではありません。大変なことであるだけに、民芸協会の方のお力添えをいただきたくお願いする次第でございます。若い者にそういうことを言いましても、一日道路修理に出れば千何がしかのお金になるのに、えらい目をする必要はないということで、いうことを聞いてくれるものはいかんせん、一人もおりません。せいぜい家内をだまし、すかしして、やらせようと心がけている仕儀であります。

 こんどの展観は本当に柳先生はじめ皆さん方に感謝しております。私が感謝すると共に、これを作りました老人たちが、もしこの世に再び生き返ってこれを見としたならば、
”いや先生これはえらいことになった、どげえするだ”といって腰を抜かして喜ぶことでありましょう。」      終わり

    (抜粋部分は原文そのままに掲載いたしました。)