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「滅びてはならぬもの」柳 宗玄

昭和47年7月号掲載。
柳宗悦氏の次男で、お茶の水女子大名誉教授の柳宗玄(やなぎむねもと)氏による文章です。
調査のため海外を訪れることの多かった宗玄氏が、日本の現況を嘆き警告を発した文章です。。今から30年程前に書かれたものですが、現在の私達にも強く訴えてきます。

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 「例えば西洋を旅行いたしますと、今の日本の情況が極めて特殊なものであることを痛感しますし、まして、さらに素朴な・・・例えば私がしばしば訪れたトルコの奥地のような・・・土地で生活いたしますと、近代文明の恩恵に浴している土地での生活がいかに不健康なさらに恐るべきものであるかが、よく理解されるのであります。」

「日本の時代の流れはあまりにも速く、10年先のことさえ予想がつかない。それが良い方向に流れてゆくのならばよいのですが、恐ろしい速度で悪い方向に流れてゆくように思われてならないのです。」

ここで、氏は日本の自然破壊さらには無謀な開発に言及し、日本は現在の情況に麻痺し、あるいは現実と妥協して、ものの真実を極む能力を喪失しがちであると述べ、そして、私たちは人間の生活がいかにあるべきかをもう一度ていねいに見直す必要があるのではないかと訴えています。
 
「せんじつ、イタリアのフィレンツェの町を歩いていた時に感じたことですが、西洋では、手工芸の伝統がまだまだよく残っています。例えば、道を歩いてふと見ると、一軒の店では。おやじがコツコツ額縁を作っている。別の店の奥では、自家製のナイフを研いでいるといった具合です。規格化した商品の大量生産ももちろんあるはずですが、じっくりと手で物を作るという伝統は意外によく残っているのです。工場生産の品物のデザインの発想が非常に豊かなので、そのような伝統のおかげなのでしょう。

 また肉屋に行きますと、天井から骨董品のようにどす黒くやいた豚の足がたくさんぶら下がっています。そのようなハムの味は、工場での機械生産のハムとは段違いのうまさなのです。フランスのパンは味がいいので定評がありますが、パンはパリのような都会でも、全部手作りです。店のおやじが毎朝3時頃に起きて地下室で焼き始める、6時頃になるとおかみさんが店を開け、床の板戸を持ち上げて地下室からおやじが突き出すパンを受け取っては店先に並べるのです。買い手は、「衛生上触らぬよう願います」と書いてある貼紙などをしらぬ顔で、指先でパンを突ついて焼け具合を確かめたりする。そのような具合ですから、パン屋はまずいパンなど作れない。料理もすべてそうです。手造りで、名誉にかけてもおいしいものを作ろうとします。

 それに対して日本では、すべてが規格化され機械生産になってきています。食べ物の味はまずく、どこへ行っても同じ味です。日本中がそうなってしまい、品物の地方性はほとんど消えてしまった。どのような田舎へ行っても、東京の安デパートで売っているものと同じものしかなくなってしまった感じです。」

 「これは単に食べ物だけの問題ではない。生活を取り巻くすべてが同じなのです。つまり近代化、機械化が進みかつ交通が便利になると、食物、生活用品から広く文化までが、地方性を失ってしまうのです。
 単に地方性だけではなくて、さらに季節性もなくなってしまったようです。例えば果物で申しますと、林檎でも苺でも、町では一年中売っています。胡瓜やトマトなどの野菜も、いつでも手に入ります。それが味がよければいいのですが、見かけだけは立派でも、味がひどく落ちてしまった。野菜の野の味はもうほとんどしないのです。

 トルコの奥地で私が生活しておりましたとき、自炊でしたので、食べ物に大いに関心をもちました。村では八百屋はなく、村人が自家用に小さい畑を作っているものを分けてもらうのです。町へ行きますと週に一度は市が立ち、農夫が余分に出来た野菜などを並べています。なす、胡瓜、トマト、玉葱、じゃがいも、パセリなどです。それらは、種類によって違いはありますが、大体、出る時期がきまっていて、初物が現れたと思うと忽ち山のように出て、値も安く味もいい。ところがじきスーッと消えてしまうのです。果物も、例えば桜んぼなど、出はじめると山のように並ぶ。濃い紫、紅、黄などさまざまあり、日本では想像出来ぬくらいおいしくそして安い。それが、短い期間しか出ないのです。林檎なども同じです。メロン、西瓜などは多少息が長いようです。

そのような土地での生活は、不便かもしれない。しかし、季節感というものがあり、それは実に嬉しいものなのです。もう少しすると何が出る・・・というような楽しみもあるのです。一年の生活にリズムがあり、リズムに潤いがあるのです。そのようなリズムや潤いは、近代化された生活からは消えつつあります。室内の気温が一年中同じ温度に調節されている近代生活においては、季節・・・それは自然の最大の傑作でしょうが・・・さえ破壊されてしまうのです。」
                            
「そのような時代に、私達が日常使う器物や家具などはどうでしょうか。簡単に申しますと、今の日本の社会では、すべてが人工化され規格化され、それに対する諦めの感情、あるいはそれを良しとする意識が非常に強いのです。」

 「要するに人間は、自然に反逆しそれから離れていくに従い、その生活が、潤いのない索漠として非人間的なものに陥ってゆき、結局は自滅してしまうのではないか・・・私たちは自然をもう一度ていねいに見直さなければならないのではないか。私はそう思うのです。

 例えば家具を見ますと、近頃は、人工的な安価な材料を使ったものがいろいろ出回っております。しかし天然の木材というものは、やはり、その質感、木目、色、温かさなど、人工的なものとは比較にならぬ美しさ良さをもっております。このような木材は、室内装飾のためにも、一番美しい材料です。単に木だけでなく、石、土など、自然の供給する材料には、私たちの生活のために有用な、極めて美しいものが限りなくあります。

 しかし最近の日本人の心理には、そのような天然の材料をうまく利用するやり方が、あたかも時代遅れであるとか後ろ向きであるとかいうふうに解する傾向が非常に強いようように思われます。
 私は、電気も水道もないトルコの奥地で生活していたとき、そのような原始的な田舎の生活の方がいくつもの点で東京あたりの近代生活よりも遥かに優れているということをしばしば感じました。

 早い話が水であります。トルコの奥地は、水に乏しい乾燥地帯に属しますが、村には1つないし幾つかの泉があります。泉があるから村があるといった方がいいでしょう。それはともかく、その泉の水は、非常によく、そして断水ということもない。東京辺りの水とは段違いにおいしいのです。村の人は、水がおいしいなどということは全然意識していないのです。 それから空気も澄んでいておいしい。空気がおいしいなどというと、村の人は大笑いするでしょう。しかし空気や水は、電気洗濯機やクーラーなどとは比較にならぬほど、人間の生活にとって大切なものなのです。

 さらにまた、そのような田舎で感ずるのは東京のような都会の騒音が全くないことです。音だけでなく騒がしい形や色は全くありません。村の建物は、そのあたりの自然の岩がそのまま結晶したような感じの石の建物です。人々は自然の中で、自然と順応しそのリズムに従って生活しているのです。

 東京では、町を歩いてみますと、自動車にはねられないかという恐怖感がいつも付き纏います。しかしトルコの田舎村での乗り物は、悠然と歩くロバで、ロバにはねられて死ぬということは、絶対にない。速度こそないが、岩山の細い道でも落ち着いて上り下りするし、雑草の道端にでも駐車させておけばガソリンは、自給自足しますし、エンストなども全くない。ロバを常用している社会の人々は、自動車を乗物にしている社会の人々より、遥かに気楽なのではないでしょうか。

 こういった物質的な問題だけでなく、心の問題に関しましても、村人達の多くは非常に気持ちが素朴で暖かくて、これまた日本の都会人などとは違います。近頃の日本人は、いつも何かに脅かされ何かに追い廻されていてまるで微笑みを忘れてしまった感じです。
 私たちはもう少し自然に戻り、山や木や岩・野の草や小川と対話をし、自然の美しいものを良く見つめ、その中からさまざまのものを学ぶべきでしょう。人間的な感覚は、自然への愛情の中からでてくるのでしょう。

 そのような意味で、民芸という問題も、この辺でもう一度考え直さなければならないのではないかと思います。民芸というものは、自然に順応する素直な気持ちの所産だと思います。それはともかく、古いものや郷土色に対するノスタルジーと解されがちです。ノスタルジーそれ自体は決して悪くはない。しかし、そのノスタルジーに媚びへつらい、それを商業主義のために利用しようとするため、薄っぺらなごまかし物が作られるようになるのです。
 わたしは、もう少し自然というものを見直し、自然への愛情と理解の上に立って、生活というものを作ってゆくべきだと思います。」

 「以上のような問題をより具体的に理解するために、ここで西洋の民家を紹介しようと思います。」
 「民家はもともと自然環境の生み出したものです。先ず素材についていえば、材木に恵まれた森林地帯の人々は木造の民家に住み、樹木に乏しく石材に恵まれたところでは、石造りの民家を作る。木材に乏しく良質の石材もない場合は、土を焼いて煉瓦にして用いるか、あるいは日干し煉瓦さらには泥そのものを固めて用いるところもあります(スペイン・北アフリカなど)。洞窟に住む例も少なくなく(スペイン・中部トルコなど)、これは決して原始的なものではなく、意外に快適であります。」
「これらさまざまの住宅の様式もそういった素材の質とそれぞれの土地の自然と関連しています。
 民家の中でとくに見事なのは、木造のものであります。」

「ヨーロッパの首都と自負するアルザスのストラスプールは、二度の大戦を通じてひどく破壊された町ですが、町の大部分を占める木造の民家群は、その都度フェニックスのごとく甦りました。この町の人々は、伝統的な木造家屋に非常な愛着を抱いているらしく、おそらく個々の建物の内部は必要に応じて多少とも近代化しているのでしょうが、町全体は依然として中世的な木造建築・・・多くは六階七階という大形のもの・・・に満ち、ここかしこに美しい雰囲気を保っています。この雰囲気は、アルザスの小さい町々にも見られますが、さらにドイツとくに北欧にはよく残っているようであります。

 それらが積極的に中世風の雰囲気を誇らしげに保っているのに対して、スペインでは、むしろ近代化に立ち遅れたという消極的な理由で、木造の民家が多く残っています。スペインの民家が特に地方色が豊かであるのは各地風土に非常な変化があるからでしょう。西部僻地にあるラ・アルベルカの村などでは中世風の雰囲気が完全に保たれ、とくにこの村は全体が文化財に指定されているそうですから、美しい民家の集団的な保護の手は、スペインでも着々と打たれているのでしょう。」

 「伝統の中に育った民家には、時代遅れ的な要素以上に、時代を超えた本格的な要素が多く含まれているのであります。日本人は、単に新しいものだけを西洋に学ぶのではなく、そのような伝統的なものをいかに護るべきかをも、西洋に学ぶ必要がありましょう。そうでなければ、日本の美しい民家は、やがて幻のように・・・そして人間の人間的な生活と共に・・・姿を消してしまうに違いないと思います。」            終わり

      (抜粋部分は原文そのままに掲載いたしました。)